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蟲師 7

花惑い
桜の花が咲くと、何だかワクワクしますよね。
私もお花見がてら、桜並木の下を歩くのが毎年恒例になってます。
このお話もそんな桜の花に魅入られた人の話。

桜の名木があると聞いて立ち寄ったギンコ。
それは700年ほども生きているであろう古い木で、
花の散った跡も無く、老いさらばえて花をつけなくなったかに見えた。
すると、幹の中に人がいた。
匂いたつような、ぞくりとするような、美しい女。
彼女の名は佐保。
目と耳が不自由だが、その症状に、ギンコは心当たりがあった。

この木には「木霊」という泡状をした蟲が棲んでいる。
木霊の宿った木は群を抜いて長く生き、美しい花を咲かせるが、
動物の中に取り込まれると、五識のいずれかを麻痺させる。

そこへ佐保の主人が現れる。
代々の庭師で、草木を美しく保つ事を生業としている。
たとえば本来は病気には強いが花は小さな種類である桜でも、
花の美しい種の枝を接げば強く美しい桜となる。
そうやって草木の研究を重ねる内に、
時に草を煎じるようになったのを人に分けているという。
大桜の泡についても先祖代々調べており、安全な処方を見つけたというが…。

そして語られた佐保の出生の秘密。
それは曾祖父の頃にまでさかのぼる。
桜の木の幹の中に置き去りにされていたその赤子は、植えて木の汁をすすって生き長らえていた。
曾祖父の万作はその子を家に連れて帰ったが、妻にも乳は出ず、重湯などをやっても飲まず、
ただ桜の木の汁を与えると飲んだ。
万作夫婦もその子供らも、本当の家族のようにその子を慈しみ育てたが、
その子の成長は遅く、十年以上も赤子のまま、桜の泡だけを飲んで育った。
三十年が過ぎ、万作夫婦も亡くなったが、佐保はまだ幼子の姿のまま。
その頃には、佐保の目や耳だけでなく、五識のほとんどが失われていたという。
そして周期的に病に伏すようになった。
佐保が体を壊した年には、大桜は花をつけなかった。
やがて代が替わっても、やはり佐保を大切に守り慈しんだ。
それが今の代の柾(まさき)である。

ギンコは佐保から木霊を抜く方法を調べるため、先祖代々残されてきた記録を確認すると、
衝撃の事実に行き当たる。
まさにその頃、佐保の容態が悪化し、柾が取った狂気の行動とは!!

桜の木は人を狂わせる、そんな魅力があると思います。
名作「桜の森の満開の下」もそう。
ひょっとしたらお花見でハメはずしちゃう人達も、狂気の一環なんじゃないかと思います。
桜がふりまくあの妖気は、一体何なのでしょうね。


鏡が淵
ギンコはとある山で、様子のおかしな娘・真澄と出逢う。
気になって自宅の両親を訪ねてみたところ、
好いた男が会いに来なくなったので、気が塞いでしまって、
体の具合まで悪くなってしまったとか。
これだけならよくありがちな話だと思われますが、ギンコは気の病だけとは限らないという。
その証拠に、水盤に姿を映しても真澄の姿は映らなかった。

これは、波のない池に棲む、「水鏡」という蟲のしわざ。
元は水銀のような姿をしたモノだが、
池の水面に動物の姿が映り込むと、その姿を真似て陸に上がる。
そして本体の後を付いて回ると、本体の方は少しずつ体力が衰えてゆき、
本体が衰えるほど水鏡は実体を持ち始め、本隊は実体を失ってゆく。
そしてやがては、水鏡が本体に成り代わる。
水鏡は水の中の鉱物質を必要とし、実体を持つと、より濃度の高い水を求めて歩き回る。
水鏡は元々の姿では自ら動く事はできないので、自由に動ける体を欲しがる。
本体と入れ替わる瞬間、誰の眼にも水鏡の姿が見えるようになる。
そこを本体に鏡に映されると姿は崩れ、本体も元に戻るという。
早速、実行できるよう真澄に手鏡を用意させると、すっかり曇ってしまっていた。
しかし真澄は頑なに、研がせなかった。

それもそのはず。
真澄の好いた男というのは、鏡研ぎの仕事をしていた。
当然真澄は、男に研いでほしいから、自分では一切研がなかった。
ところがある時、この一帯で鏡研ぎのくちが減ってしまい、仕事場を替えてみると言い出した。
勇気を出して男の嫁になりたいと切り出すも、男にまだ所帯を持つ気がなく、
その気になるまで待つと言っても、嫁にするならもっと大人しい娘がいいと断られた。
それっきり、男とは会えず、鏡も研がないままになっていた。

すっかり投げやりになった真澄は、水鏡と代わってやったっていいとまで言い出した。
水鏡と入れ替わるという事は、自我も実体も失うという事。
つまり、自分の意思でこの世に影響をおよぼす事が何ひとつできないモノになる。
蟲とはそういうモノ。
蟲に心などはありはしないが、多くのモノが光を求めて這い出そうとする。
そんな、さびしくはかない存在。
それに対し、血の通う実体を持つという事は、それだけで強い力を持つという事。
果たして、真澄を救い出す力になったものとは!?

生命力の強さを感じさせてくれるストーリーで、いつもより非日常感が少ないかもしれません。
その分、共感できたり、読みやすい部分が多いかもしれないですけど。
鏡を研ぐ習慣ってすっかり珍しくなりましたよね。
改めて「手鏡を研ぐ」って、何て乙女な行為なんだろうと思ってしまいました。


雷の袂
ギンコは、何度も落雷に遭っているという木を調べてみることに。
ところが、その木自体には異常がみられなかった。
では、雷に打たれたことのある者を調べることに。

その少年はレキ。
五年ほど前に木の下で雷に打たれてから、三度ほど同じ木の下で雷に打たれているという。
これは「招雷子」という蟲の仕業。
本来、上空を漂い、雷を喰って生きているモノだが、
落雷の拍子に幼生が地表に落ちてくる事がある。
そうなると自ら上空に戻る事はできず、近くの木のくぼみや、
ヒトがいた場合、ヘソから体内に入り身を隠す。
そして体内から放電して雷を呼び宿主に落とし、それを喰って羽化する時を待つ。
招雷子が雷を喰うため、落雷を受けても即死する事は少ないが、
何度も打たれているといずれは命を落とすという。
招雷子を体外に出すには、レキのヘソの緒で煎じ薬を作ればいい。
ところが、ヘソの緒が見つからず…。

この母子には根本的な問題があるようでした。
確かに自分の腹を痛めて産んだ子であるのに、子供との接し方がわからない。
他に嫁ぎたい人がいたのに叶わず、産みたくない子供を産んだからなのか。
そんな自分を息子は怒っていると、母は思っていた。
だから目の前に雷を落として母を罰しているんだと。

ところが、ギンコは他の原因を考えていた。
レキが何故あの木の上で雷を待つのか。
あの木は、自分以外の者を落雷に巻き込む確立の、いちばん低い場所。
家屋からは離れていて、雷の被害がおよぶ事はない。
それでいて、雷に気付いてすぐ駆けつける事ができる距離。
そして村の者も雷が鳴れば、あの木には近付かない。
そう、母や父や、村の者を守るため…。
そんな危険を冒すレキをやめさせたものとは!?

いろんな母子関係はありますが、改めて母子の絆の深さを考えさせられました。
たとえ望まれない母子関係だったとしても、その根底に流れる繋がり、
そして母子が互いに幸せに暮らせるためにはどのようにしたら良いのか、
当人たちには気づけないけど、周りが介入されることで変わることもあると思うのです。
必要とされるとことに、必要な手が差し伸べられますように。


棘のみち
前後編に分かれて連載された、蟲師の中では長めの作品です。
数少ない準レギュラー的存在の「狩房淡幽」が背負ったものに関する話。

最古の蟲師一派である薬袋(みない)一族。
代々、狩房家に仕えてきたが、ある使命を持っている。
その昔、大天災の後に異質な蟲が表れて、
生物も蟲も朽ち果てようとしている最中に力を持ち、
他の全ての生命を消さんとしたという「禁種の蟲」。
それを食い止めたのが先祖である薬袋の蟲師。
しかしそれは、ヒトの身に封じ込めるというものだった。
その役目を引き受けたのが狩房家の先祖。
だがそれは、脈々と狩房の血筋の中に生き続け、
今も淡幽の右足の自由を奪っている。
薬袋一族は一刻も早くその蟲を完全に絶やす術を見つけなければならない。
この禁種の蟲の為に、現当主のクマドは己の全てを捧げてきた。

今、とある山中で、異常な現象が起きている。
一度死んだ植物が、また生命活動を始めていると。
生命の均衡が崩れれば、天変地異が起きる。
これは、禁種の蟲が現れる前兆かもしれない。

ギンコとクマド。
蟲に対する考え方が違い、相容れない二人ではあるが、
二人の共通点である淡幽にとっては、二人とも大切な友人。
足の不自由な淡幽にとって、外の世界の話を二人から聞くことが、何よりの楽しみなのでしょう。

ところで「棘(おどろ)のみち」とは、草木の生い茂った道のこと。
「草葉の蔭」は死者の国とつながっているのだとか。
この作品では、地から湧き出る蟲の通り道で、
蟲の世と我々の世とのつなぎ目として描かれています。
いわゆる「幽界」のようなイメージですかね。



蟲師 (7)  アフタヌーンKC (404)

蟲師 (7) アフタヌーンKC (404)

  • 作者: 漆原 友紀
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/02/23
  • メディア: コミック



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